樂樂福神社 由緒略記

縁起巻物
縁起巻物

  旧縣社・願望成就の福の神 

樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 由緒略記

 

人皇第七代孝霊天皇を主神とし、皇后をはじめ后妃や皇子など、其の御一族を祀る旧縣社。

創建は千百年以上の昔と伝わる屈指の古社で、古くは鉄生産の守護神として崇敬された日野郡開拓鎮護の総氏神です。孝霊天皇が当地を巡幸された折に鬼林山に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞し召され、御一族を従えて彼の邪鬼を退治された伝説が伝わっています。

爾来、開運招福・願望成就の福の神として人々の崇敬を集めています。

かつては日野川を隔てて対岸に(西)樂樂福神社が鎮座され本社と共に二社一対の祭祀が続けられて居りましたが平成16年11月3日に当社に合祀され一社となりました。

 

一、ご鎮座地

 

鳥取県日野郡日南町宮内1065番地

 

二、ご祭神

 

大日本根子彦太瓊尊 第七代孝霊天皇

(おおやまとねこひこふとにのみこと だいななだいこうれいてんのう)

 天皇が当地を巡幸された折に鬼林山(きりんざん)に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞召され御一族を従えて彼の邪鬼を見事に退治された日野郡開拓鎮護の総氏神。

 

細媛命 皇后(くわしひめのみこと こうごう) 通称 ほそひめ・ほそ媛さん

 孝霊天皇の皇后にして第八代「孝元天皇」の御母神。平安時代末期頃までは「臍」(へそ)のことを「ホソ」と発音した。此即ち細媛命を安産の大神と敬い奉る所以である。

 

若建吉備津彦命 皇子(わかたけきびつひこのみこと おうじ)

 兄皇子の大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)と共に四道将軍として吉備の国を平定された知慮と武勇にすぐれた大神。

 

福媛命 后妃(ふくひめのみこと きさき)

 孝霊天皇の皇女とする説もあり。日南町印賀に鎮座の「樂樂福神社」は主祭神の皇女「媛姫命」(ひめのみこと)を此の福媛と同一のお方として奉斎する。

 

彦狭嶋命 皇子(ひこさしまのみこと おうじ) 別名 歯黒皇子(はぐろおうじ)

 此の皇子はお生まれになった当初から鐡(てつ)の如き黒々とした強い歯がすでに生え揃い、性分もすぐれておられたので、天皇巡幸の御時は必ず此の皇子を伴われた。此即ち 彦狭嶋命を歯の大神と敬い奉る所以である。

 

旧(西)樂樂福神社ご祭神

        大日本根子彦太瓊尊 

       細媛命 

       大吉備津彦命(若建吉備津彦命の兄皇子) 

       彦狭嶋命

       絙某弟命(はえいどろのみこと) 

       大山祇命(おおやまづみのみこと)

 

合祀神社ご祭神

   応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 大山祇命 金山彦命 軻遇槌命 素盞鳴命 大巳貴命 経津主命

   武甕槌命 市杵島姫命 猿田彦命 倉稲魂命 彦火々出見命 高淤加美命 蛭子命 大日霊貴命 

大正八年に近隣の川上神社 愛宕神社 内裏原神社 坂根神社 宮谷神社 厳島神社 大森神社 村尾神社を合祀して奉斎する尊き神々。 

 

摂社 若宮神社ご祭神

   磯城縣主大目命(しきあがたぬしおおめのみこと・細媛命の御父神)

   欝色雄命(うつしこおのみこと)

   大矢口宿禰命(おおやくちすくねのみこと)  

   大水口宿禰命(おおみなくちすくねのみこと)

孝霊天皇に随従され当地方の開拓に功績を残された大神達。

 

末社 木野山神社ご祭神  

   大山祇命(おおやまづみのみこと)  

   木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

「たたら製鉄」に必要な大量の木炭の安定供給を図り、孝霊天皇の御聖徳を援け給う大神として天皇御自ら親しく奉斎された大神達。

明治以降は病気平癒や疫病除けの神として人々の信仰を集める。 

神社左側の杉の大木は同社の御神木との伝承のほか、叶う荒神(かのうこうじん)として人々の願いをかなえる願掛けの木とも伝わっています。

 

彰徳殿ご祭神

         祖霊 護国の英霊 

戊辰戦争から大東亜戦争までの英霊のほか、公職にあった殉職者や歴代の神官・神職の御霊。

 

所管社 荒神社ご祭神

    夜啼荒神(よなきこうじん)

農耕のほか子供の夜啼き封じや子育てに御利益がある神様。

 

三、ご由緒

当社は大日本根子彦太瓊尊(第七代孝霊天皇)を主神とし、皇后、后妃、皇子及び其のご一族を奉斎する。

天皇はご幼少の御時「樂樂清有彦命(ささきよありひこのみこと)と称し、また(ささふく)号された古くは砂鉄生産の護神して厚く崇敬され日野郡開拓鎮護の総氏神として日野大社笹福大明神と尊称された。ご祭神の原初的な祭祀は古代まで遡ると考えられるが神社としてのご創建は仁和二年(西暦八八六年)との口伝がある。孝霊天皇が当地に巡幸された折に林山(きりんざん)踞(ばんきょ)する(ぎゅうき)の名で恐れられる一団が里人を悩ます由を聞し召され、皇子神達や随従の神々を率いて彼の凶賊を悉く退治された。今、境内近くにある鬼塚はその首魁を埋めた場所と伝わっている。一方、細媛命は巡行中の天皇の御跡を慕ってお尋ねになる途中、お産のお悩みがあり日野川のとある石の上にお憩いになる。時節は五月のなかばにして雨が多く降り里人は畏みて菅の蓑と笠とを奉った。また増水した川の水音が高く聞こえた為、皇后が「水音喧(みずおとかま)」と仰せになると水の音が忽ち止んだと伝わっている。よって日野川のこの流域(日野町上菅)は「無川(おとなしがわ)」と呼ばれるようになった。そして其の地をお立ちになる時「むら雨の露のなさけの名残りをば此処にぬぎ置く菅の蓑笠」と御歌を詠まれた。そして更に川上に上られて天皇とお逢いになり、宮内の里は良い宮処なりと御所を定めて多くの年月を過ごされたと伝わっている。即ち当社はご祭神の偉大なる御治績を追慕尊崇して鎮斎された古社でその宮処こそ「内裏」と尊称された現在の社地である。爾来、人々の崇敬は変わる事無く開運招福・願望成就の福神として遠近よりの参拝者が今日も絶えることは無い。明治元年「樂樂福社」と改め同五年縣社に列格され同七年「樂樂福神社」と改称、同四十年神饌幣帛料供進神社に指定された。また大正八年には近隣鎮座の村社六社・無格社一社を合祀した。昭和十五年には皇紀二千六百年記念として本殿を新たに造営し同年十一月に正遷宮祭を斎行した。戦後は神社本庁の包括神社となり例祭(春季大祭・五月一日)には本庁より献幣使が参向して幣帛料を奉る。